2014年11月

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 んじゃる戦争(いくさ)ぬばすお、首里城(うぐしく)んかい日本軍(やまとぅいくさ)ぬ司令部(しりいぶ)ぬあたくとぅ、首里城はじみ、まんぐらあ諸(むる)、艦砲・砲弾さあにいっそうから、けえ焼(や)かってぃ、ねえらん。
 久慶門(ふくいうじょう)ぬたんかあぬ道(みち)ぬ側(すば)んじ焼(や)ち残(ぬく)とおたる赤木(あかぎ)ぬあやあに、沖縄中(うちなあじゅう)んじ、聞(ちくぃ)いとおたしが今(なま)あ無(ね)えらんなとおん。
 写真ぬ赤木え園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)から弁財天堂(びでえてぃんどう)ぬ間(ゑえざ)んかい立(た)っちょおるむんやしが、戦後(いくさあとぅ)ぬむんどぅやる。
 首里城ぬ周辺(まんぐら)ぬ町々(まちまち)んかいん赤木(あかぎ)えまんどおん。やしが、中北部ぬ村ぬ中んじえ、なんぞお、見ちぇえなだん。
 琉球(るうちゅう)赤木え白色(しるいる)ぬ木目(むくみ)なやあに色美(いるじゅ)らあてぃ、腰刀(日本刀)ぬ柄(ちか)ぬ材料(ぜえむく)とぅんなたん。
 赤木ん日本文化(やまとぅぶんか)ぬ一(てぃい)ち?

【語句】
 んじゃる戦争ぬばすお、首里城んかい=去った大戦では、首里城に
日本軍ぬ司令部ぬあたくとぅ、首里城はじみ=日本軍の司令部部があったことから、
まんぐらあ諸、艦砲・砲弾さあにいっそうから=周辺はすべて、艦砲・砲弾でかたっぱしから
けえ焼かってぃ、ねえらんなとおたん=焼かれてしまった。
久慶門ぬたんかあぬ道ぬ側んじ焼ち残とおたる赤木ぬあやあに=久慶門向かいの道にかけ残った赤木があり、
沖縄中んじ、聞いとおたしが今あ無えらん=沖縄中で評判であったが今はない。
写真ぬ赤木え園比屋武御嶽から弁財天堂ぬ間んかい=写真の赤木は園比屋武御嶽から弁財天堂の間に
立っちょおるむんやしが、戦後ぬむんどぅやる=立っているものであるが、戦後のものである。
首里城ぬ周辺ぬ町々んかいん赤木えまんどおん=首里城周辺の首里城下町にも赤木は多い。
やしが、中北部ぬ村ぬ中んじえ、なんぞお、見ちぇえなだん=だが、中北部では村の中ではあまみ見ない。
琉球赤木え白色ぬ木目なやあに色美らあてぃ=琉球赤木は白い木目があって美しく、
腰刀(日本刀)ぬ柄ぬ材料とぅんなたん=日本刀の柄の材料としても用いられた。
赤木ん日本文化ぬ一ち?=赤木も日本文化の一つ?

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 安慶名城(あぎなぐしく)お大川按司(ううかああんじ)ぬ居城(むぬ)やたくとう大川城(ううかあぐしく)んでぃん言(い)ゃっとおん。
 組踊(くみをぅどぅい)「大川敵討(別名忠孝夫人)」(久手堅親雲上作)んかい同(い)ぬ名(なあ)ぬ按司(あんじ、あじ)ぬ出(ん)じてぃちゅうしが、くぬ城(ぐしく)んかい居(をぅ)たる按司ゆモデルとぅそおるむぬがやら分(わ)からん。
 14世紀(じゅうゆんしいち)まんぐるんじぎれえらったんでぃぬ事(くとぅ)やしが、勝連城(かっちんぐしく)とぅか座喜味城(ざちみぐしく)とぅ比(く)なびいねえ、でえじなぐまさぬ、石垣(いしがち)ぬ内むてぃいんかいや、家屋敷ん、一ちぐれえどぅぎれえらりゆる。玉城城とぅ同ぬまぎさぐれえなてぃ、「シロ」んでぃ言(ゆ)しやか、「御嶽=拝所(うたき)」風儀(ふうじい)なてぃ、初期(はじまいぐる)ぬ「グスク」ぬ面影(うむかじ)ぬあん。
 石垣下(いしがちしちゃ)ぬ東(あがり)むてぃいや広(ふぃる)さる城ぬ御庭(うなあ)なとおしが、北(にし)むてぃいんかいや今(なま)あ、使(ちか)あらってえ居(をぅ)らん牛庭(うしなあ)ぬあん。

【語句】
安慶名城お大川按司ぬ居城やたくとう=安慶名城は大川按司の居城だったことから、
大川城んでぃん言ゃっとおん=大川城とも称されている。
組踊「大川敵討(別名忠孝夫人)」(久手堅親雲上作)んかい=組踊「大川敵討(別名忠孝夫人)」(久手堅親雲上作)に
同ぬ名ぬ按司ぬ出じてぃちゅうしが=同名の按司が登場するが、
くぬ城んかい居たる按司ゆモデルとぅそおるむぬがやら分からん=この城に居た按司をモデルにしものなのか定かでない。
14世紀まんぐるんじぎれえらったんでぃぬ事やしが=14世紀頃に建造されたとの事であるが、
勝連城とぅか座喜味城とぅ比なびいねえ、でえじなぐまさぬ=勝連城や座喜味城と比較すると、とても小さく、
石垣ぬ内むてぃいんかいや=石垣の内側(いわゆる本丸?)には、
家屋敷ん、一ちぐれえどぅぎれえらりゆる=家屋も一軒ぐらいしか建てられない。
玉城城とぅ同ぬまぎさぐれえなてぃ=(南部の)玉城城と同程度の大きさであり、
「シロ」んでぃ言しやか、「御嶽=拝所」風儀なてぃ=シロというより、御嶽(拝所)的であり、
初期ぬ「グスク」ぬ面影ぬあん=初期のグシクの面影を残す。なお、「グシク」は地域によっては、拝所等の聖地・風葬墓等にもいう。
石垣下ぬ東むてぃいや広さる城ぬ御庭なとおしが=城壁下の東側は広い御庭(広場)になっているが、 「御庭」は沖縄の「グシク」の標準的付帯施設で、直属の臣下はじめ、配下の村々の長等を集めて、按司からの通達を行ったり、議論させたりする集会所のような役割があったと考えられている。
北むてぃいんかいや今あ、使あらってえ居らん牛庭ぬあん=北側には今は使われてない闘牛場がある。

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