2017年08月

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 上綾門(ゐいぬあやじょう)や「守礼之邦」んでぃぬ額(がく)ぬしぎらっとおくとぅ「守礼之門」んでぃん言(ゆ)ん。
 「守礼之邦」や、平和(ふぃ、ひいわ)、んずみてぃ、ましそおたる琉球人(るうちゅうんちゅ)、褒(ふ)みとおたる中国皇帝(とうぬこうてぃい)から拝(をぅが))だるむぬやんでぃ、言(い)らっとおん。
 確(たし)かに、琉球国(るうちゅう)んかいや軍奉行(いくさぶじょう)如りいや居(をぅ)らな、踊奉行(をぅどぅいぶじょう)ぬどぅ居たる。
 19世紀(しいち)に、琉球んかい来(ち)ょおたるウイリアム・ファーネスや琉球ぬ事心配し、「『守礼之邦』ぬ名(なあ)んかいふさあらん人(ちゅ)ぬ、うぬ守礼之門、ふきゆる事(くとぅ)ぬ無(ね)えら如(ぐとぅ)、祈(いぬ)ゆん」でぃち書ちょおん(参考文献:『青い目が見た大琉球』)。
 やしが、廃藩置県(はいばんちきん)ぬばすお、熊本軍(くまむとぅいくさ)ぬ、また沖縄戦ぬばすお、日本軍守備隊ぬくぬ門ふきてぃ、首里城(うぐしく)ゆ司令部(しりいぶ)とぅしち、沖縄ゆ戦場(いくさば)なちゃん。
 あんし、今(なま)ちきてぃ、沖縄(うちなあ)やちゃあ、くなしいさっとおん。ファーネスぬ心配事(しわぐとぅ)ぬ、実(じゅん)にけえなたん。

【語句】
上綾門や「守礼之邦」んでぃぬ額ぬしぎらっとおくとぅ=上綾門は「守礼之邦」という扁額が付けられていることもあって、
「守礼之門」んでぃん言ん=「守礼の門」ともいう。
「守礼之邦」や、んずみてぃ、平和ましそおたる琉球人、褒みとおたる=「守礼之邦」は平和をこよなく愛していた琉球人を讃えていた
中国皇帝から拝だるむぬやんでぃ、言らっとおん=中国皇帝から頂いたものだと言われている。
確かに、琉球国んかいや軍奉行如りいや居らな=確かに、琉球国には防衛相(軍隊組織、徳川幕府の旗本)のようなものはなく
踊奉行ぬどぅ居たる=(代わりに)踊奉行があっただけである。注:「踊奉行」は「接待相」のようなもので、冊封使(王を任命する時だけ来る中国からの使者)の訪琉の備え、「一時的に」設置される「相」であった。
19世紀に、琉球んかい来ょおたるウイリアム・ファーネスや=19世紀に来琉していたウイリアム・ファーネスは、
琉球ぬ事心配し、「『守礼之邦』ぬ名んかいふさあらん人ぬ=琉球の事を心配し、「『守礼の邦』に相応しくない人間が、
うぬ守礼之門、ふきゆる事ぬ無えら如、祈ゆん」=この門をくぐることのないよう祈る」
でぃち書ちょおん(参考文献:『青い目が見た大琉球』)=と書き記している。(参考文献『青い目が見た大琉球』ニライ社)
やしが、廃藩置県ぬばすお、熊本軍ぬ=だが、廃藩置県の際は、熊本鎮台が
また沖縄戦ぬばすお、日本軍守備隊ぬくぬ門ふきてぃ=また、沖縄戦の際は、日本軍沖縄守備隊が、この門をくぐり、
首里城ゆ司令部とぅし、沖縄ゆ戦場になちゃん=首里城を司令部として使用し、沖縄を戦場にした。
あんし、今ちきてぃ、沖縄やちゃあ、くなしいさっとおん=そして、沖縄はいまだに、踏み付けら続けている。
ファーネスぬ心配事ぬ、実にけえなたん=ファーネスの不安が的中してしまった

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 「かつれんのあまわり、きこゑ、あまわりや、ちやくにのとよみ、又きむたかのあまわり」、「たまみしやくありよな、きやかまくらこれといち、とよま」。
 阿麻和利(あまわり、あまわい)やかん、『おもろ御(う)さうし』於(をぅ)とおてぃ、あんし羨(うれえ)まさぎさし、歌(うた)あらっとおる按司(あじ)ぬ他(ふか)に居(をぅ)いがすら。
 彼(あり)が敵(かたち)やたる中城(なかぐしく)護佐丸(ぐさまる)ぬんちょおん、同(い、ゆ)ぬ書物(しゅむち)んかいや褒(ふ)みい歌(うた)あ無(ね)えらん。
 やしが、阿麻和利え1458年(にん)んじ、首里軍(しゅいいくさ)なかい討(う)たったん。
 彼え何処(まあ)んじ殺(くる)さったがんでぃぬ伝(ちて)え話(ばなしい)や色々(いるいる)あしが、胴(どぅ)や,くりかあぬ「うゑんみ坂(びら)」んかい捨(し)てぃらったる事(くと)お確(たし)かやいぎさん。
 戦後迄(いくさあとぅ)、晒(さら)っさとおたる彼が骸(がら)あ、彼が親戚(うゑえか)ぬ人(ちゅ)ん達(ちゃあ)にゆてぃ、ブロックなかい囲(かく)らってぃ今(なま)ぬ有様(ありさま)んかいなたん。
 首里(しゅい、すい)やかん栄(さけ)えとおたる阿麻和利勝連や王女(あっとうがなしいめえ、うみないび)、妻(とぅじ)にしみらってぃ油断(ゆだん)し、
 又(また)、中城護佐丸ん琉球国まるちゃる一番(いちばん)ぬ手柄者(てぃがら)やたんでぃぬ油断とぅ自(どぅう)ぬ女(ゐなぐ)ん子(ぐぁ)、首里んかい嫁(ゆみ)にやらちゃんでぃゆる油断ぬあたん。二所(たとぅくる)ぬ按司え首里尚泰久んかい心許(くくるゆる)ちゃるびけんなかい、あたら世(ゆう)失(うしな)てぃ無(ね)えらん。

【語句】
「かつれんのあまわり、きこゑ、あまわりや=「勝連の阿麻和利、有名な阿麻和利は、
ちやくにのとよみ、又きむたかのあまわり」=大国として、響き渡り、誉れ高い阿麻和利、以下繰り返し」、
「たまみしやくありよな=「美しい御柄杓を所有して」、
きやかまくら これといちへ、とよま」=「京、鎌倉(と同じと)叫んで、評判を轟かそう」
阿麻和利やかん、『おもろ御さうし』於とおてぃ=阿麻和利ほどに、『おもろ御さうし』において、
あんし羨)まさぎさし、歌あらっとおる按司ぬ=このように羨まし気に謳われている豪族が
他に居いがすら=他にいるだろうか
彼が敵やたる中城護佐丸ぬんちょおん=彼のライバルであった中城城の護佐丸でさえ、
同ぬ書物んかいや褒みい歌あ無えらん=同書に讃える歌はない。
やしが、阿麻和利え1458年んじ首里軍なかい討たったん=だが、阿麻和利は1458年に首里軍によって討伐された
彼え何処んじ殺さったがんでぃぬ伝え話や色々あしが=彼がどこで殺害されたかという話は諸説あるが
胴や,くりかあぬ「うゑんみ坂」んかい捨てぃらったる事お=遺体がここら辺の「降参坂」に捨てられた事は、
確かやいぎさん=確かなようである
戦後迄、晒っさとおたる彼が骸あ=戦後(沖縄戦後)まで、晒されいた彼の亡骸は、
彼が親戚ぬ人ん達にゆてぃ、ブロックなかい囲らってぃ=彼の縁故人によって、ブロックで囲われ、
今ぬ有様んかいなたん=現在のような(墓らしい)形になった。
首里やかん栄えとおたる阿麻和利勝連やあっとうがなしいめえ=首里より栄えていた阿麻和利勝連は王女と
妻にしみらってぃ油断し=結婚させられて油断し、注:王女の名は「百渡踏揚」で護佐丸の孫娘。
又、中城護佐丸や琉球国まるちゃる一番ぬ手柄者やたんでぃぬ=また、中城護佐丸は琉球国を統一した最功労者だったとの
油断とぅ自ぬ女ん子、首里んかい嫁にやらちゃんでぃぬ油断ぬあたん=油断と自身の娘を首里に嫁がせたという油断があった
二所ぬ按司え首里尚泰久んかい心許ちゃるびけんなかい=二人の豪族は首里尚泰久王に心を許したばかりに、
あたら世失てぃ無えらん=あたらわが世を失ったのである。
注:「おもろさうし」の解釈は筆者によるものです。
注:「うゑんみ坂」は、この地で阿麻和利が首里軍の討伐隊に対して「うゑんみ(降参)」と発声したとされた」ことから、その名が付いたと語り継がれてきたとされるものです。

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