2019年04月

魚小堀(那覇市首里)

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 首里城(うぐしく)ぬ直(し)ぐ北(にし)むてぃいんかいあん。
 龍潭(りゅうたん)んでぅぬ名(なあ)し音高(うとぅだか)さしが、人(ちゅ)ん達(ちゃあ)や「いゆぐむい(魚小堀)」んでぃ言(い)ちょおん。
 復帰前頃迄(ふっちめえぐるまで)え田舎(いなか)ん人(ちゅ)ぬとぅてえ、無(ね)えらん風儀(ふうじい)ぬあいゆかぬゐいりき所(どぅくる)やたん。
 琉球国世(るうちゅうくく)んじ、唐(とう、とぅう)ぬ石造(いしづく)い技取(じいとぅい)やたる懐機ぬ造(つく)たんでぃ言(い)らっとおん。
 小堀(くむい)ぬ北(にし)むてぃいんかいや、昔(んかし)、尚温王ぬ建(た)てぃたる国学(くくがく)ぬあたん。
 南(ふぇえ)むてぃいぬ森(むい)や園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)、ハンタン山(やま)んでえなとおん。
 復帰前、首里城跡(しゅいぐしくあとぅ)んかい琉球大学ぬあたるばすお、直ぐ側(すば)んかい男子寮ぬあたくとぅ、南むてぃいぬ森んかいや、夜(ゆる)お恋語(くい)れえする男女(くいじんどうさあ)ぬまんどおたん。
 首里城公園けえなてぃからあ、夜お大簫々(ううそうぞう)とぅけえし、恋語れえする男女ぬ声ん(くぃい)ん音(うとぅ)ん聞(ち)からんなとおん。
 トゥルバヤアぬ棲(す)み処(どぅくる)が、けえなとおらあ…。

【語句】
首里城ぬ直ぐ北むてぃいんかいあん=首里城の直ぐ北側にある。
龍潭んでぃぬ名し音高さしが、人ん達)や=龍潭の名で知られているが、
「いゆぐむい(魚小堀)」んでぃ言ちょおん=「いゆぐむい」と通称する。
復帰前頃迄え田舎ん人ぬとぅてえ、無えらん風儀ぬ=復帰前頃までは地方人には、非日常の
あいゆかぬゐいりき所やたん=とてもわくわくする場所だった。
琉球国世んじ、唐ぬ石造い技取やたる懐機ぬ=琉球国時代に唐人の土木技術者だった懐機の
造たんでぃ言らっとおん=作品だと言われている。
小堀ぬ北むてぃいんかいや、昔=池の北側には、昔、
尚温王ぬ建てぃたる国学ぬあたん=尚温王が建てた国学(今の大学?)があった。
南むてぃいぬ森や園比屋武御嶽、ハンタン山んでえなとおん=南側の森は園比屋武御嶽、ハンタン山等になっている。
復帰前、首里城跡んかい琉球大学ぬあたるばすお=復帰前、首里城跡に琉大があったころ、
直ぐ側んかい男子寮ぬあたくとぅ=(池の)すぐそばに男子寮があったこともあって、
南むてぃいぬ森んかいや、夜お恋語れえする男女ぬまんどおたん=南側の森には夜にはデートをする男女が多かった。
首里城公園けえなてぃからあ、夜お大簫々とぅけえし=首里城公園なってしまってからは、夜はひっそりと静まり返り、
恋語れえする男女ぬ声んん音ん聞からんなとおん=デートする男女の声も音も聞こえなくなった。
トゥルバヤアぬ棲み処が、けえなとおらあ…=ハブの棲み処になってしまったのだろうか。註:「トゥルバヤア」は「寡黙な者」という意味であるがハブの別称でもある。

じゅり馬祭(那覇市)

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 廿日正月(はちかしょうぐゎち)えまたじゅり馬(んま)祭(まちい)ぬ日(ふぃい、ひい)ぬ別名(びちなあ)んやん。
 やしが今度(くんどぅ)ぬじゅり馬祭や昨日(ちぬう)やたん。
 肝要(かんぬう)なじゅり馬ぬ御揃(うすね)えいや2時間びけえぬ舞台(ばんく)んじぬ催(むゆ)し物(むん)ぬうちなちからやたん。
 じゅりぬ家(やあ)や戦後(いくさあとぅ)お無(ね)えらんなやあに、じゅりん居(をぅ)らんなとおしが、うぬ祭びけえ残とおせえふぃるましむん。
 じゅりぬ家とぅしちぬ辻村(ちいじ)ぬ由来(ゆれえ)や色数(いるかじ)伝(ちて)えらっとおしが、くりえあらんがらんでぃぬ思(うま)ありいる話(はなしい)や後(あとぅ)ぬ通(とぅう)い。
 かあま昔(んかし)、首里城(うぐしく)ぬ大内原(ううちばら)から城人(ぐしくんちゅ)三人(みっちゃい)ぬ馬(んま)んかい乗(ぬ)てぃ、くまんかい来(ち)ゃんでぃぬ伝(ちて)え話(ばなしい)から、馬んか乗ゆる祭ぬ由来(ゆれえ)なたんでぃぬ事(くとぅ)。
 女(ゐなぐ)三人(みっちゃい)し辻村(つじむら)創(つく)てぃ、城人(ぐしくんっちゅ)とぅしち、持(む)っちょおたる墨(しみ)、芸能(じいのう)、作法(さふう)んでえ使(ちか)やがなあ、男(ゐきが)、御取(うとぅ)い持(む)ちいするじゅりぬ村なてぃ行(ん)じゃん。
 客(ちゃく)ぬ他(ふか)あ男(ゐきが)ぬ居(をぅ)らん村。
 じゅりぬ補(うじね)えや女童(ゐなぐわらび)買(こう)てぃむとぅうさんでえならんたん…。

【語句】
廿日正月えまたじゅり馬祭ぬ日ぬ別名んやん=廿日正月(旧暦の一月廿日)はじゅり馬祭の別称でもある。
やしが今度ぬじゅり馬祭や昨日やたん=だが、今年のじゅり馬祭は昨日だった。
肝要なじゅり馬ぬ御揃えいや=肝心なじゅり馬の行列は
2時間びけえぬ舞台んじぬ催し物ぬうちなちからやたん=約2時間の舞台演舞が終わってからだった。
じゅりぬ家や戦後お無えらんなやあに=辻遊郭は戦後は消え
じゅりん居らんなとおしが=遊女もいなくなったのに、
うぬ祭びけえ残とおせえふぃるましむん=この祭だけが残っているものめずらしい。
じゅりぬ家とぅしちぬ辻村ぬ由来や色数伝えらっとおしが=遊郭としての辻村の由来は多くの伝承があるが、
くりえあらんがらんでぃぬ思ありいる話や=これはと思われる伝承は
後ぬ通い=次の通り
かあま昔、首里城ぬ大内原から城人三人ぬ=はるか昔、首里城の大奥(女官室)から女官三人が
馬んかい乗てぃ、くまんかい来ゃんでぃぬ伝え話から=馬にのってこの地にやってきたという伝説から
馬んか乗ゆる祭ぬ由来なたんでぃぬ事=(遊女が)馬に乗って行列する祭の由来になったとのこと
女三人し辻村創てぃ、城人とぅしち=女三人で辻村を興して、女官として、
持っちょおたる墨、芸能、作法んでえ使やがなあ=身につけていた学問(教養)、芸能、作法を駆使して、
男、御取い持ちいするじゅりぬ村なてぃ行じゃん=男を接待する遊郭村として成っていった。
客ぬ他あ男ぬ居らん村=客以外に男がいない村だけに
じゅりぬ補えや女童買てぃむとぅうさんでえならんたん…=遊女の補充は女児を買うことで維持しなければならなかった…。 女児は一人前になるまで「じゅりあんまあ」(女将)によって育てられた。

注:辻村の開祖は女3人だったしても、遊郭らしきものは12世紀頃から既にあったとの説もある。「じゅり」には「尾類」、「女郎」等が当てられるが、この祭り会場にある漢字は「侏●」であった。(●はパソコンが保有してない漢字なので表示不可。「擒」の「へん」を「にんべん」した漢字?「かまえ」も少し違うか?)。
ギャラリー
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  • 首里城(那覇市)
  • ジョン万次郎記念碑(豊見城市)
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  • 忘勿石(竹富町南風見)
  • 茅葺ぬ古家(竹富町)
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