2019年05月

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 写真(しゃしん)からあ新物(みいむん)ねえそおしが、造(つく)い直(のお)ちぇえるむぬどぅやる。
 浦添城(うらしいぐしく)や為朝(たみとぅむぬ)伝説(ちてえばなし)、引提(ふぃっさ)ぎとおる舜天世(ゆう)からぬむんでぃ伝(ちて)えらっとおしが、伝え話くるが切(ち)り端(ふぁ)ん無(ね)えんむんやくとぅ、実(じゅん)にがやら分からん。
 あまみちゅうぬ子孫(しすん)なやあに王統(おうとう)ぬ初(はじ)まいんでぃ言らっとおる天孫子んまあんかいが居(をぅ)たらあしかっとお分(わ)かてえ居らん。
 やしが、くまんかい英祖(いいす)王が居たんでぃぬ話や色(いる)んな系図(ちいじ)そうなむんから、実にやいぎさい、琉球(るうちゅう)ぬ国(くに)とぅしちぬ創(はじ)まいやくまからがやたら。
 地名(ぢいなあ)ぬ「うらしい」ん「うらうすい」、言(い)いどぅんせえ、「うら」あ「国」、「うすい」や「覆い」ぬ積合(っちむええ)やん。
 「国うすゆん」んでえ、「国覆いたっくゎあち、かきゆん」でぃぬ積合んかいなゆん。
 実に「うららしい」んでえ国ぬ中心(なかじん)又(また)王都(ゑえぐに)んかい相応(ふさ)とおる名(なあ)やあらに。

【語句】
写真からあ新物ねえそおしが、造い直ちぇえるむぬどぅやる=写真からはきれいに見えるが復元したものである。
浦添城や為朝伝説、引提ぎとおる舜天世からぬ=浦添城は為朝伝説を伴う舜天時代からの
むんでぃ伝えらっとおしが、伝え話くるが=ものだと伝えられているが、伝説自体が
切り端ん無えんむんやくとぅ、実にがやら分からん=あいまいなので事実からどうか知らない。
あまみちゅうぬ子孫なやあに王統ぬ初まいんでぃ=アマミキヨの子孫とされ、王統の初まりと
言らっとおる天孫子んまあんかいが居たらあ=言われている天孫子(王統)もどこにいたのか、
しかっとお分かてえ居らん=ちゃんとしたことは分かっていない。
やしが、くまんかい英祖王が居たんでぃぬ話や=だが、ここに英祖王がいたという話は、
色んな系図そうなむんから、実にやいぎさい=さまざまな系図の類からして、事実っぽいし、
琉球ぬ国とぅしちぬ創まいやくまからがやたら=琉球が(組織だった)国としての創まりはここだったろうか。
地名ぬ「うらしい」ん「うらうすい」=地名の「うらしい」も「うらうすい」
言いどぅんせえ、「うら」あ「国」=つまり、「うら」は「国」、
「うすい」や「覆い」ぬ積合やん=「うすい」は「覆い」の意味である。
「国うすゆん」んでえ=「国を覆う」ということは、
「国覆いたっくゎあち、かきゆん」=「全土を覆い尽く(カバー)して支配する」
でぃぬ積合んかいなゆん=との意味になる。
実に「うららしい」んでぃぬ地名や国ぬ中心=実に「うらしい」という地名は国の中心、
又王都んかい相応とおる名やあらに=そして、王都に相応しい地名ではないのか。

注:「浦添」の「しい」は「襲う」の名詞形とする説や「しい」は「しゅい」で「按司しゅい」=「按司様」のように敬称を表す語とする説などの説があります。

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 長(なげ)げえさ行(ん)じぇえんだんたる勝連城(かっちんぐしく)んかい、ぬばがたれえ、古南道(ふるふぇえみち)ぬ堀(ふ)い返(けえ)らさっとおたん。
 勝連城んかいや童(わらび)ぬばすかふら幾(いく)けんが行(ん)じゃらあ計算(さんみん)ならんあたい、行(ん)じゃしが、古南道見(ぬ)うしえ初(はじ)みてぃやたん。
 うぬ道ぬ下(しちゃ)まんぐらんかい古南南風原村(ふるふぇえばるむら)ぬあたる筈(はじ)やい、またくぬ道え、与那原(ゆなばる)から船軍(ふないくさ)押(う)し寄(ゆ)してぃ来(ち)ゃる首里軍(しゅいいくさ)ぬ押し登(ぬぶ)てぃ来ゃる道んやら筈(はじ)。
 やぐとぅ、今(なま)、写真(しゃしん)から見(ん)じいねえ、ギンネムんでえぬ山丈(やまだき)、巻(ま)ち喰(くゎ)あち、只(ただ)ぬ畑道小(はるみちぐゎあ)ぬ如(ぐと)どぅあしが、歴史(りちし)からしいねえ、あたらさんあい、肝要(かんぬう)な道跡(みちいあとぅ)やん。
 うんな道ぬある事(くと)お前々(めえめえ)から分(わ)かとおたしが、他(ふか)にんする事(くとぅ)ぬまんでぃがやたら、今(なま)どぅ掘い返しぬ手組(ていぐみ)んなたるばすやら筈。
 勝連城ぬ丸回(まんま)るうや、なあふぃん、堀い返えち拵(くしれ)えいねえ、昔(んかし)ぬ姿(しがた)んかい似(に)いがすらん分(わ)からん。


【語句】
長げえさ行じぇえんだんたる勝連城んかい=久しぶりに勝連城に
ぬばがたれえ、古南道ぬ堀い返らさっとおたん=足を伸ばしてみたら、旧南道が発掘されていた。
勝連城んかいや童ぬばすかふら幾けんが行じゃらあ=勝連城には子供の頃から何回行ったか、
計算ならんあたい、行じゃしが=計算できないほど、行ったが、
古南道見うしえ初みてぃやたん=旧南道を見るのは初めてだった。
うぬ道ぬ下まんぐらんかい古南南風原村ぬあたる筈やい=その道の下あたりには旧南風原村があった筈であり、
またくぬ道え、与那原から船軍押し寄してぃ来ゃる=またこの道は与那原から海路、戦船で攻めてきた
首里軍ぬ押し登てぃ来ゃる道んやら筈=首里軍が馳せ登った道でもあるかもしれない。
やぐとぅ、今、写真から見じいねえ=だから、今写真から見ただけでは、
ギンネムんでえぬ山丈、巻ち喰あち、只ぬ畑道小ぬ=ギンネム等が身体を覆いつくすほど生い茂り、只の畑道の
如どぅあしが、歴史からしいねえ、あたらさんあい、肝要な道跡やん=のようなのであるが、歴史的には貴重かつ重要な遺跡である。
うんな道ぬある事お前々から分かとおたしが=こんな道が存在することは以前から知られていたが
他にんする事ぬまんでぃがやたら、今どぅ掘い返しぬ=(関係機関・団体は)他にもやることが多く、最近になって発掘の
手組んなたるばすやら筈=手配でいたのかもしれない。
勝連城ぬ丸回るうや、なあふぃん、堀い返えち=勝連城の周囲はもっと、発掘して、
拵えいねえ、昔ぬ姿んかい似いがすらん分からん=整備すれば、嘗ての姿に似るかもしれない。

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